56歳から新しい職場にチャレンジして、地元和歌山と横浜の2拠点生活を始めました!

自分の中の制限を外して新たに職を探すと、横浜に住む夢が叶い、新しい勤務先でも成果を出せたという宮堂嘉代子さんからお聞きしたお話です。

宮堂嘉代子さん
歯科衛生士・サロン運営・フラクタル心理カウンセラー
                 和歌山県在住

25年ぶりに再就職して

――以前、お話を伺いましたが(Vol.72)改めて学んだきっかけと変化についてお話しいただけますか?

主人と中学生と高校生の息子、義父母と同居し、自営業を営む主人の会社の経理を手伝っていました。43歳のときに同居の義父母が要介護5となり、介護に追われる日々となりました。3年後に義母が他界すると、義父の徘徊がひどくなり、人生を嘆いていたときに出会ったのがフラクタル心理学でした。

個人カウンセリングを受けると、一人っ子の私は何でも母にやってもらって当然と思い、その傲慢で依存的な心が外側に投影されて、世話を掛ける人を作り出していると講師から指摘されました。「責任を取る生き方」をするように言われ、「人にやってもらおうと思うな、自分でやりなさい」と自分の深層意識に言い聞かせました。

その後、義父が老人ホームに入所することになり、それを機に、結婚前にしていた歯科衛生士の仕事に復帰したいと思い、歯科クリニックへの再就職を希望すると49歳で正規採用されました。再就職できた喜びもつかの間、現実の厳しさに直面しました。25年のブランクがあり、その間に機器や歯科材料は変わり、受付業務やカルテもパソコン入力になっていました。

私はパソコンに触ったこともなかったので、若いスタッフに「やってもらいたい、察してほしい」と依存の思いが出てきましたが、そのたびに、「私は変わる」「すべきことをコツコツやりなさい」と自分に言い聞かせると、3ヵ月ほどで何とか業務をこなせるようになったのです。

年月を経て、職場ではスタッフ教育をする立場になりました。主人は私の活動や勉強に協力的になり、一緒にビジネスマインドコースも受けてくれました。復帰して6年目、フラクタル心理カウンセラーの資格を取り、「ケアする人の心と身体の癒し講座」の講師にもなり、休日にはカウンセリングや講座を行うようになりました。

LDPの分析に従い制限を外すと、横浜の歯科医院勤務の話がきて

――再び講座を学ばれて、どんな変化がありましたか?

再就職した歯科医院に勤めるうちに、仕事でステップアップしたいと思うようになりました。56歳になっていたので、転職するなら早いほうがいいと思いましたが、県内には思うような求人がなく、年齢的に難しいのではないかと踏み出せないでいました。

そんな折、オンラインでLDPコースを受けて、ニュースや出来事から今の私の問題を読み解くと、「限界があると思うな」というメッセージが出てきたのです。講座が終わってリビングに行くと、テレビにユニバーサルスタジオのCMが映り、「ノーリミット」(限界はない)というキャッチフレーズが流れてきました。

自分の未来を阻むのは、いつだって自分なのだと気づき、限界を作るのをやめようと決めました。すると、実際に60代、70代で活躍している現役の歯科衛生士さんの活動が耳に入ってきて勇気づけられ、地元だけではなく範囲を広げて転職先を探しました。すると、以前、研修でお世話になった歯科の先生から、「新設する歯科医院で長年勤務経験がある歯科衛生士を募集しています。場所は横浜ですが、あなたはもう子育ても一段落ついているし、行ってみませんか?」と声を掛けられたのです。

3年前、次男が東京で働き始めたときに、「次は私の番、お母さんの夢だって必ず叶える」とアメブロに書きましたが、いつか亡父の故郷でもある横浜に住んでみたいと思っていました。今回の話を受けて、横浜で自分の力を試したいと思いましたが、家庭の主婦である私が単身赴任をすることには躊躇がありました。

そこで個人カウンセリングを受けると、「自分の世界は自分が創り出したのですから、気おくれせずにやってみる。それが責任を取るということです」と言われ、「自分を人生の中心に置きなさい。エネルギーを出して、自分の人生の主導権を握りなさい」「長年、深層意識の修正をしてきたのなら、今度は欲しい未来をどんどん創造していきなさい」と背中を押していただけたのです。

同じ頃、以前、TAWプレスに掲載された私の記事を読んだという方からFacebookでメッセージが届きました。「私も20年ぶりの再就職で、心が折れて泣いてばかりいましたが、宮堂さんの記事を読んで励まされ、辛い時には何度も読み返しました。今日まで仕事を頑張ってこられたのは、宮堂さんのお陰です。本当にありがとうございました」とあり、過去の私から励まされた気がして、横浜に行ってステップアップしようと心が決まりました。

私の横浜行きに対して、主人はいい返事をしていませんでしたが、「行ってもいい」と自分自身に許可を出す意識を持ちながら2カ月くらい話し合いを続けると、主人も受け入れてくれるようになりました。また、結婚して30年、何不自由なく生活でき、息子たち2人を大学に通わせ、同居の両親を見送って、今も仕事に励む主人は本当に立派だと、改めて見直しました。

勤務1年で、厚労省が定める施設基準の取得もできて

――横浜ではどのような形で勤務されたのですか?

横浜の歯科医院で面接を受けると、これまでの経験や実績が考慮され、月に2週間の勤務で、横浜の住居の家賃と水道光熱費全額、和歌山と横浜の毎月の往復の新幹線代、お給料はほぼ1ヵ月分支給という好条件での採用となりました。前の職場も当時人手不足だったので、月に2週間は勤務することになりました。

横浜と和歌山での2拠点生活が始まりました。横浜の歯科では普通の歯科医衛生士業務にプラスして事務方とスタッフのマネージメントを任されました。全国でまだ約3割の歯科医院しか認定されていない厚生労働省の施設基準の認定に向けて、歯科の設備や人員、治療体制を整え、実績を上げることに取り組みました。

勤務して約1年後、昨年12月に認定を受けることができ、当初の売り上げ目標も無事に達成して、役割を果たすことができました。今年は2年目になり、より充実した業務活動ができるように、引き続き取り組んでいきたいと思っています。

22年11月に横浜勤務が決まった時点で、翌年の3月には地元の歯科医院は辞めるつもりでしたが、求人を出しても合う人が来ず、そのまま勤め続けていました。講師に相談すると、「あなたが椅子を空けないから次の人が座れないんです」と言われて、逆に自分が人を入れない原因になっていたと気づき、「10月で辞めさせてください」と言って辞めました。すると、後任の人が決まりました。

今は歯科衛生士の仕事は横浜だけになりましたが、2週間ごとに往復しています。22年の1月に自宅の離れを改装してサロンを作りましたので、以前から行っていたエステティックや、フラクタル心理カウンセラーとしてカウンセリングや勉強会を行っています。

主人はこの1年間で家事もできるようになりました。今まで全く料理をしてこなかったのに、凝った料理を作るようになり、先日も肉専用の厚い鉄板でローストビーフを焼いてご馳走してくれました。

今の生活も主人との信頼の上に成り立っていますので、これからも主人を大切にして仲良く暮らしていきたいと思っています。近くにいる長男に子供が生まれたので、地元にいるときは初孫の顔を見るのが楽しみです。自分の体験を通して、いくつになっても挑戦できること、夢を叶えていけることを伝えていきたいと思っています。

横浜の歯科医院で

2024年7月発行TAWプレスに掲載
文:(株) Mamu&Co. 藤田理香子