確率3%の扉を開けて、46歳で元気な男の子を出産!

深層意識に溜まった両親への思いを出し切り、現象化の仕組みを信じて行動すると、念願の妊娠出産が叶いました。

フラクタル心理カウンセラー
元マスターコース上級講師
阿形路子先生 
神奈川県在住

24年ぶりに会った同級生と結婚して妊活する

5年前、フェイスブックで繋がった高校の同級生と24年ぶりに再会して、「高校のときからずっと好きだった」と告白されました。フラクタル心理学の先輩講師に彼の話をすると、「あなたにピッタリだと思う」と言われて、再度、彼に会ってみることにしました。フラクタル心理学では「短所は長所」と言いますが、ちゃんと話をしてみると、イヤと思ったところが良いところに見えてきて、その日からお付き合いが始まり、10日後の私の誕生日にプロポーズされて、2ヵ月後には入籍するという、42歳で思いがけないスピード婚になりました。

子どもが欲しかったので、1年ほどは自然妊娠を目指しましたが、婦人科医から体外受精をすすめられ、紹介された専門医からは「43歳で体外受精をしても、自分の子どもを抱ける確率は3%以下ですが、それでもやりますか」と問われました。

たとえ確率が低くても、チャレンジしないであきらめたくはありませんでした。さっそく、人工授精と体外受精を試しますが、どちらも受精までは至らず、次に、顕微授精で受精させた初期胚をお腹に移植すると、妊娠反応はあったものの、成長が遅く、流産の可能性があると言われました。

カウンセリングで両親への思いを吐き出す

フラクタル心理学開発者の一色真宇先生に相談すると「子どものころの親に対する思いがまだ滞っているはずなので、その思いを出し切りなさい」とカウンセリングをすすめられました。

私が小学校1年のときに両親が離婚して、母が家を出ていきました。17歳のときに母が病気で亡くなり、29歳のときに父が事故で亡くなりました。母が私と弟を置いていったことや、アル中の父から殴られ、蹴られたことなど、親を恨んできましたが、30歳でフラクタル心理学を学び、初めて親には愛があったと知ることができました。

母はタンスの裏にホコリを溜めたことがないほどのきれい好きで、父の居酒屋を手伝い、姑も同居していたので、今の私からみたら完璧にやっていました。それなのに、子どもころの私は「親はこうあるべき」という思いが人一倍強く、「私を完璧に育てろ」とばかりに母を責めていたのです。

講師になってからも、折に触れて親の愛を確認し続ける13年でした。それでも底のまた底には、親への文句がくすぶっていたのでしょう。いざ自分が親になろうというときに、回り回って今度は自分が責められる気がして、言葉にならない恐怖を感じ、親になることができないのです。

カウンセリングでは、奥底に眠る親への怒りを吐き出しながら、こんなに泣けるものかと思えるほど泣き、気づけば机の上に涙とよだれの丸い池ができていました。何を怒っているのかわからないときはつらく感じますが、よく思い出してみると「な~んだ」と思えるような小さな不満ばかりでした。

カウンセリングをしてくれた講師は子育て中でしたので、親になったときの思いや子どもと接するときの気持ちも引き出してもらえました。感情を出し切って、最後のストッパーが外れたのでしょう。「親になってもいいんじゃない」と、そう思えるようになったのです。

着床前診断に出会って妊娠

結局、卵は育たずに流産しました。流産した朝、廊下で夫と目が合うと、抑えきれずに声をあげて泣きだした私を、夫はぎゅっと抱きしめて一緒に泣いてくれました。不妊治療は一人で頑張る孤独な闘いではなく、私には夫という心強い仲間がいると、気持ちをあらたにすることができたのです。

一度流産すると、体が回復して次のチャレンジができるのは半年後で、そのときはもう44歳、私には時間がありません。その後の検査で、受精卵は染色体異常で必ず流産する卵だったこともわかり、年齢的に8割以上が異常卵とされるなか、闇雲に移植するのでは間に合いそうもないと思えました。

フラクタル心理学では、こんなとき「できるとしたら?」と考えます。きっと何か方法があると決め込んで、毎晩インターネットを検索しました。すると、移植前に受精卵の染色体や遺伝子の解析をして流産率を下げる、着床前診断という検査方法があることを知ったのです。これは海外で行われている方法で、基本的に日本では受けられないとわかりましたが、それでも「できるとしたら?」と根気よくネットで検索して、神戸に一箇所だけ行っている病院があるのを見つけました。

その病院で着床前診断をしてもらえることになり、仕事も3ヵ月間休職して、毎月1週間から10日、神戸に滞在して通院しました。注射や薬の副作用で体調がすぐれず、ホテルでは横になる生活でしたが、正常卵は見つからずに、休職を延長させてもらうことにしました。

6ヵ月後の10月に初めて正常卵が1個見つかりました。2人目が欲しかったので、その卵を凍結しておき、そのまま治療を続けました。結局、1年間で採卵できた26個の卵子のうち、凍結までできた卵が16個で、着床前診断ではさきほどの正常卵1個と、モザイクという妊娠する可能性が高い卵が1個見つかったのみでした。1年かかってたった2個と嘆く暇などありません。この1個の正常卵にかけるしかないのです。

万全の体制で移植したいと思い、再度ネットで調べて、必要と思える母体検査を受けると、「妊娠継続できないほどの不育症」と診断されました。どの検査も普通の生活では支障のない数値でも、妊娠を目指すには改善が必要でした。さらに4ヵ月間休職して、食事制限で糖質を大幅に減らし、大量のサプリメントを飲みました。3ヵ月後には数値が改善して、正常卵を移植することができ、その1回で無事に妊娠することができたのです。

現象化の仕組みを信頼して

治療で先の見えないとき、TAWフラクタル現象学で現象化の仕組みを知っていたことも助けになりました。マンデルブロ集合*に表わされるように、到達点にフォーカスし続ければいつか必ず現象化するという現象化の仕組みを信頼して、その瞬間を待つことができました。

カウンセリングのときにイメージした子どもとのボール遊びを思い出して、その場面の現実化まで、必要な注射を打ち、薬を飲んで、目の前のやるべきことを淡々とこなしていきました。また、友人の講師に電話で近況報告をするたびに誘導瞑想をしてもらうことで、不安な気持ちもリセットしていきました。

父に対する思いも変化しました。高校のとき、友人たちから「取替えて」と取り合いになるほど、調理師の父がお弁当にいれてくれるチャーハンは美味しいと評判でした。「隣で見ておけ」と父に言われて、作り方を見てきましたが、大人になって何度トライしてもその味は出せませんでした。

結婚してチャーハンを作ったときに、「味付けが決まらないから」と夫に仕上げを任せて、できあがったチャーハンを一緒に食べると、ぽろぽろと涙が流れました。「お父さんのチャーハンを思いだした。幸せだな」と言うと、「幸せなときは笑うんだよ」と夫は微笑み、夫の愛を通して父の深い愛を知ることができたのです。

早産のリスクを乗り越えて無事出産

妊娠37週目の正期産となる1週間前、不育症の治療で毎日2回打っていた注射の副作用で不正出血しました。ここへきてまだ早産のリスクがあることを思い知らされましたが、なんとか事なきを得ました。

そして、迎えた計画無痛分娩の当日、分娩中にふと気づくと狭い部屋で医師と看護師10人くらいに囲まれていました。何があったのかわからず、騒然とした空気に包まれるなか、無事に産まれてくれることだけを祈りました。緊急帝王切開となりましたが、無事に男の子を出産しました。あとから聞いた話では、胎児の心拍が下がり、一時期たいへん危険な状態だったといいます。

最初に産声を聞いたときは、ただただ涙が流れました。「何かをしなければ自分の存在価値はない」と私は思ってきたようです。だから、両親にも「何かをしてくれることが親の価値」とばかりに要求し続けてきたのでしょう。腕の中で息をする息子のぬくもりを感じながら、生きている存在自体がこんなにも価値のあることで、最高に幸せなことなのだと、初めて知ることができたのです。

あの日イメージしたボール遊びを、いまは息子と楽しむ日々を過ごしています。フラクタル心理学に従って、心を変え、行動を変えたからこそ、出産確率3%の扉を開けることができたのだと思います。カウンセラーや講師であっても自分の深い意識を見ていくのには限界があります。いつでも手を差し伸べてくれるフラクタル心理学の先輩や仲間がいることを、こんなに心強く思ったことはありません。いま47歳ですが、これから二人目にも挑戦したいと思っています。

*インナーチャイルド:深層意識のなかの成長しきれていない未熟な一部
*マンデルブロ集合:拡大しても同じパターンが現われるフラクタル図形

 


着床前診断を推進する患者の会を代表してNHKのラジオ深夜便に出演(20年1月13日放送

 


FM西東京の妊活ラジオにもゲスト出演(20年1月26日放送ほか2回)